ピアノのお話し
楽器演奏の世界はさながらアスリートの世界とほぼ同じなのではと思っています。
幼少期から20歳になるまでに主に17世紀から20世紀の作曲家のレパートリーを一通り網羅するようなレッスンを受け、同時に読譜能力やソルフェージュ能力等々様々な音楽的な基礎能力も磨く訓練も受け、国際コンクールで成績を残す、という競争の中で、
あんまり上手く息ができなかった実感がずっとありました。
大好きな曲なのに、どうしてもうまく弾けない。ミスタッチを連発する。譜読みも特別早くない。そうすると、コンクールと試験で弾く曲しかレパートリーが増えていかない。
こんなに下手くそな人間がピアノを弾く意味はどこにあるんだろうか、どうして私の体は言うことを聞いてくれないんだろう、と何度も思い悩み、同時に「ピアノを弾く人間」の将来性にもあまりポジティブなものを抱けないまま学生生活を送っていました。
当時の私の主観では、ピアノ科の卒業生に残された道は、主に活動的なコンサートピアニストになるか、レッスンを主軸にしながら自分でコンサートを開くかという二つでした。
その中間として、企業などのパーティに呼ばれて弾くお仕事や、スタジオミュージシャンというキャリアも存在するものの、前者はやはり基本はレッスンを中心とした生活で、後者はクラシック以外の音楽への理解と高いレベルの演奏の正確性、読譜能力の高さ、柔軟性を求められるという印象です。
私はピアノの先生を仕事にしたいわけではなかったし、活動的なコンサートピアニストになりたいと思って音楽高校に入ったわけでもなく、ただただ楽器を弾く面白さと譜面を読む面白さに取り憑かれて、
音楽で世界を見たり語る能力を持てたら良いなあ、という少しぼんやりとした目標を持って音楽高校に進学しました。その過程で、ピアノがもっと上手に弾けたらいいなあと。
ピアノという楽器は、産業革命において大きな進化を遂げ、近代に至るまで何度もアップデートを繰り返し、今の形になりました。その万能性から一台であらゆる音楽的な機能をカバーできるゆえに「一人いればじゅうぶん」な楽器でもあります。
そして同時にあらゆる演奏上の能力を特に高く求められる楽器の一つであるとも思っています。何せ、鍵盤を押せば誰もが「綺麗なピアノの音」を出せるのです。
その中で演奏における専門性の比重が技術的要素に置かれがちなことは、今では簡単に予想できることで、その上で自分に何ができるかと考えを巡らせることも今では容易だと思いますが、競争の中に身を置いて常に順位を意識するサイクルの中にいると、その余裕は持てなかったなあと思います。
私の学生時代の演奏の評価は、「演奏の正確性やテクニックで欠けている部分がある」「音の粒だちや音質がクリアで独特な透明感がある」「聴いてる人がポジティブになるような印象を受ける演奏」というものであり、正確性とテクニックに欠けている点、
そして私は西洋音楽以外の素養もなく(興味が向かなかった)、特段柔軟性もなかったため、活動的なコンサートピアニストやスタジオミュージシャンを目指すのは仕事としても向いているとは思えなかったです。
成人を迎え、大学生活も後半になった頃、やっと自分の中でその競争から降りる決意ができました。そして「音楽で世界や社会を見たり語る能力を持てたら良いなあ」という最初の目標が切実なものとなりました。
私は実家がアイスクリーム屋さんを営んでおり、音楽を学ぶためにかかる莫大な費用をアイスの個数で計算する癖がありました。
3000円のチケット代を払うためにはアイスを約15個売る必要があり(※当時の価格だとだいたい一つ210円)、それはとてもとても大変なことで、スキルに欠ける私の演奏にはその価値があるのか、スキルに欠けがあったとしても私がピアノで語る音楽はそれに相応しい説得力があるのか、それを提供できるのか。。。
大切なお金を支払って音楽を聴く人に、私は何ができるのだろう、ということをよく考えていました。
考えを巡らせるうちに、作られた音楽を再現する人間になるより、そもそも音楽を作る人間になった方が、「音楽を通して語りたいこと」「音楽を通して見えること」「音楽を通して提供できること」の幅が広がるかもしれない、という結論に至りました。
パソコンで音楽が作れると知ったのは、作曲家になろうと思ってからしばらく後でした。
作っていると、どんな曲を作っても「ピアニストが作った曲」として見られること、そして事実、私が何か作ろうと思考するときの引き出しには「ピアノ」しかなく、自分がピアノで考えられない音は何も作れないということに直面しました。
このままだと演奏におけるコンプレックスにとらわれたまま音楽を作りつづけるのでは、という疑念がふと頭をよぎりました。
「ピアニストが作った曲」と思われないような、私のバックグラウンドやピアノの鍵盤が想起されない曲を作ろう。
せっかくパソコンで音楽を作るなら、ピアノならこうするとかピアノだとこれができないというような発想を捨てて、あらゆるジャンルや文化に触れたい。
いろんな法則やマナーを知りたい。
そうして技術や思考を積み上げていった先に、自分がもう一度ピアノを弾きたいか、ピアノの音楽を作りたいのか考えたい。
そう考えて、当時はまだ細々と演奏活動もしていましたが、2018年ごろすべてやめました。
EPを出すまで、そして出してからも現在に至るまで本当にたくさんのお仕事をさせていただいています。
コンペにも何度か通り、アイドルに楽曲を提供したり、アニメの音楽に携わる機会もありました。一番たくさん作ったのは広告音楽で、様々な国で流れる、様々なジャンルの曲を本当にたくさん作りました。
その生活を繰り返す中で、周りのミュージシャンに「自分の作品は作らないの?」と聞かれたタイミングが2019年でした。
まだ自分の作品というものがフワフワとした得体の知れない存在で、あんまりよくわからなかったのですが、だんだんとその得体の知れない何かの輪郭をなぞってみたいなという気持ちが出てきました。
最初は思いつく限り言葉で、得体の知れない存在を少しずつ具象化していき、それがだんだんコンセプトになりテーマになり、最後にそれを「音」に置き換えていきました。
そうして生まれたのが「指先の虹彩」となりました。
このEPでは全四曲、すべてピアノの音が使われています。
あんなにもう離れよう!と決意し、たくさん他の楽器に触れ、様々なジャンルに挑戦して、どれも楽しくて面白くて、どんな音でも作ってみたいと思って、その時思い浮かんだ音をたくさんパレットを並べたのですが、
「自分の作品」としても私自身に対しても、最も切実で説得力がある楽器、そして最も誠実に語れる楽器はやっぱりピアノなのだなあと実感する作品になりました。
今でも「鍵盤が見えない」音楽を作りたいという意思は私の根っこのうちの一つですが、またピアノもたくさん弾きたいなあとやっと思い始めた2025年です。
「一日練習をサボったら取り返すまでに三日かかる」と言われていますが。もう今年で演奏から離れて7年になるので、約8000日練習を積まなければと震えています。
人生が長くてよかったです。
離れると決めた時はもう戻ってこれないかもなと思ったり、事実指が動かなくなっている自分を見たくなくて、なかなか弾こうと思えないという側面もありました。
周りから見たらものすごく小さな悩みですが、私にとっては重たいことでした。
あくまで当時を振り返って「こう考えていたな」という莫大な量の思考を、「ピアノ」との関わり部分のみを抜粋して記載しているという点、今も学生時代と同じ考えを持っているわけではないという点はご留意いただきたいです。
当然、ここに書いていない他のジャンルの音楽や様々なカルチャー、学問、人との出会いが、学生時代も今もたくさんあります。
その刺激を受けて、ピアノや音楽との関わりを見つめ直す機会や、思考に幅を持てたと思っております:-)
EPの解説を載せる前に、書いておきたいなと思っていたことでした。